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第二届"舜禹杯" 日语翻译竞赛原文(日)
阅读次数:    发布时间:2017/01/05

日本人とは何か

われわれは何を望むか。それはまだ形をなしていないと私はいった。これは事実の問題であって、それ以上何をつけ加えていうこともない。われわれは何を望み得るか。これは可能性の問題であって、私は私なりに意見をいうことができるだろう。私の意見はさしあたって二つある。

 第一、過去の日本人は、一方で造型的な感受性と趣味の鋭敏さを実証し、他方で工業技術の発展に能力を示した。しかしその二つのものを結び合せることはできなかった。多分われわれはその結合を望むことができるだろう。われわれを勇気づける徴候は、すでに建築の一部にあらわれている。そこでは鉄やコンクリートで建てる技術と、伝統的な美的感受性とが融和している(ただし伝統的な感受性との融和であって、木造建築の形との融和ではない。木造建築の形がコンクリートの材料と融和するはずのないことは、わかりきっている。融和するはずのないものを無理にむすびつけてつくった世にもぶざまな建築の典型的な例は、東京九段のその名も軍人会館という怪物である)。建築の成功は、たとえ少部分での成功のようにみえても、おそらくその意味するところが大きい。なぜなら建築はそこで人間が働き暮す場所であり、またすべての造型美術の母体でもあるからだ(彫刻はその柱や欄間から、絵画はその壁から、次第に独立して出て来たものにすぎない)。すべての創造的な時代は、何よりもまずその建築に時代精神の形を見出していた。たとえば紀元前五世紀のギリシャ、紀元後八世紀の日本、十二世紀のフランス等。建築が精神の問題でなくなったのは、現代的な病のいちばん重い症状の一つである。建築に調和を発見するということは、おそらく、単に日本の問題であるばかりでなく、現代の世界の問題の核心にも触れているのである。

 第二、過去の日本人は開国によって近代的な国家をつくりあげることに成功したが、それは技術的な開国であり、つくりあげた国家は技術的に近代的であったにすぎない。十九世紀半ばの技術的(物質的)な開国に対し、現在二十世紀の半ばに、おそらくわれわれは思想的(精神的)開国を望むことができるだろう。この場合にわれわれを勇気づける条件はいうまでもなく日本歴史の上ではじめて明瞭に人権を保証した憲法である。人権宣言のいまだ嘗てなかった社会で西洋の近代思想を問題にするのは、極端にいえば学者の道楽にすぎなかった。ところが思想は他の何であり得るとしても本来道楽の対象ではあり得ないはずのものだ。開国以来今まで思想的には依然として鎖国がつづいていたといっても、大局を誤ることにはならないだろう。現にこの鎖国は、外国思想との交渉の問題になるよりもはるかに手まえで、日本人の精神的構造そのものにおける鎖国的特徴としてあらわれていた。今はその詳細にたち入ることはできない。しかしとにかく戦前の日本に育った日本人のほとんどすべてには共通のある精神的特徴がある。その特徴を簡単にいえば、まず心理的な段階では、閉鎖的であること、思想的な段階では、ものの考え方の普遍的でないことである。思想的な段階では話が面倒になる(という意味は、決して問題があいまいだということではないが)。心理的な段階では、たとえば外国で何年間か日本人旅行者の反応を観察すると、容易に話がはっきりする。一定年齢以上の日本人旅行者の反応は、ほとんどすべての外国人の反応、及びそれと何ら変るところのない一定年齢以下の日本人の反応と、著しくちがっている。しかもその特殊性は、性別、教養、知能の程度、個人的な性格の差などとは、おどろくべきことに、ほとんど全く関係していない。そうではなくて、ただ精神的鎖国の結果と関係しているのである。若い日本人にそういう特殊な反応がほとんどないのは、単に若さの問題ではなく、育ってきた環境の閉鎖性が少くとも心理的には崩れはじめているからであろう。私は精神的鎖国の原則が、すでに憲法で崩れ、その心理的影響が、青年において崩れはじめていると結論したいと思う。しかしもちろんその結論から、思想的開国までゆくのは遠い道である。人権宣言にもとづく憲法とおそらくは生活様式の推移から来る心理的な開放性、――この二つの条件だけから、精神的開国ができないことはいうまでもない。しかし二つの条件は、われわれが精神的開国をのぞむときに、われわれを勇気づける現実的な根拠にはなり得る。そしてすでに現れはじめているそのような条件を維持し、拡大し、われわれの望みを空想に終らせないためには、どうしても平和が必要だということになる。戦争、戦争の準備、戦争を予定した措置のすべては、人権を冒す最大の理由であり、多かれ少かれ民主主義をその原理において侵害するものである。そのことに疑の余地はない。その意味でわれわれは平和を望むことができるだろうし、その理由は単に原爆の被害が忘れられないということばかりではなく、日本の軍国主義的権力の人権に対する加害が忘れられぬということでもあり得るだろう。人権に対する加害は同時に精神的鎖国を導く。ところが開国の必要は、外国の思想の輸入などということとは全く無関係に、偉大な地方的文化をいかにして普遍的な価値の世界へ引き入れるかという望み以外のものではない。

日本人とは何か――さしあたって何であるかわからぬ。しかしやがて技術文明のなかに人間的な感覚の「形」を導き入れるという重大で決定的な仕事に熱心なあまり、平和をねがわずにはいられない一国民になり得るでもあろう国民である。われわれはそのような歴史を負い、今も活気にみち、自分の能力のほんとうの使いみちを探しているのだ。

        加藤周一『現代倫理講座』筑摩書房、1958年

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